女優・深田恭子さん(39)と不動産会社シーラホールディングスの杉本宏之会長(44)が年内にも結婚する方向で調整していることが2021年12月31日、分かりました。
そこで今回は、深田恭子さんのお相手の杉本宏之会長にピックアップしていきたいと思います。
なんでも過去には赤字400億円を再起させた過去があるとのこと。
そんな杉本宏之会長の生い立ちを振り返ってみたいと思います。
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杉本宏之会長にプロフィール
- 名前:杉本宏之(すぎもとひろゆき)
- 生年月日:1977年6月25日
- 年齢:44歳(2022年1月現在)
- 出身地:茨城県守谷市
- 最終学歴:専門学校卒
- 職業:実業家 株式会社シーラホールディングス取締役会長
- 身長:180cm
高校卒業後、宅建主任者資格を取得し、住宅販売会社に就職、22歳でトップ営業マンとなる。
2001年に退社し、24歳でエスグラントコーポレーションを設立。
デザイナーズワンルームマンションのデベロップメント事業を皮切りにプロパティマネジメント、賃貸仲介業、人材派遣業、中古マンションの再生販売、一棟収益ビル事業と事業を拡大し、総合不動産企業に成長させる。
2005年12月20日、名古屋証券取引所セントレックス市場に不動産業界史上最年少で上場を果たす。
業容は拡大したが、2008年のリーマン・ショックの影響から急激に業績が悪化、2009年に負債191億円を抱え、民事再生を申請、受理される。
その後、再起し、元部下や友人と共にエスグラントに匹敵する規模にグループを育て上げた。
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杉本宏之会長の貧乏だった幼少期
もともと不動産会社の社長だった杉本宏之会長の父親の会社は、そこそこ順調だったものの、
ワンマンなやり方に不満を募らせた専務が、他の社員を引き連れて独立。
その結果会社が傾き、倒産してしまいました。
もちろんこれは杉本宏之会長の家庭にも響き、これまでの豊かな生活から一変。
杉本宏之会長が3歳のときに、父親が多額の借金を抱えたことで自宅を売却することになりました。
父親・母親・杉本会長の親子3人で6畳一間、風呂なしの埼玉県川口市のアパートで極貧生活が始まったのでした。
物心もついた頃には、6畳一間のトイレもお風呂もない家に住み、貧乏だった記憶が残っています。幼心に見た、母が台所の流し台の洗面器に水をためて身体を拭いている姿は、今でも鮮明に目に焼きついています。私も夏場になると、何とか学校の帰りに友達の家のお風呂に入れてもらえるための口実を考えていました。
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しかし、杉本会長一家にはさらに追い打ちが。
今の生活だけでもやっとのところに、借金取りが来るようになりました。
これが連日連夜続くため、杉本会長が小学生の頃に神奈川県川崎市に引っ越し。
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杉本宏之会長一家を母親が支えるように…
杉本宏之会長は8歳の時に交通事故に遭い、生死の間をさまよって3ヶ月入院しました。
その時の怪我で、今も杉本会長の左足の指は動きません。
当時のことを以下のように振り返っておられます。
ぶつかった車を運転していた相手から何とかお金を引き出そうとしている父を見て、改めて自分の家が貧乏であることと、自分でお金を稼ぐ必要性を感じました。
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またこの時、事業に失敗してからまともに働かない父親に代わり、母親がパートに出ていました。
しかしそのお金さえも、父親はパチンコで使い果たしてしまうような生活だったようです。
次第に疲弊していった父親は、今の世の中や他人の批判ばかりをするように。
それでも両親は杉本宏之会長を愛情を持って育てられたそうです。
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母親の死をきっかけに荒れていった父親と杉本宏之会長
杉本宏之会長は中学に上がると部活に入って身体も鍛え、外見にも自信が持てるようになったといいます。
また、勉強もそこそこ出来る方で、特に文系教科の国語と社会は学年1番の成績を収めるなど、
家庭とは打って変わって順風満帆な生活を送っていました。
ところが、中学2年生のときに母が胃ガンで亡くなりました。
家計を支えるために働き、なかなか医者にも行こうとしなかった母親は既に手遅れになっており、入院からわずか1ヵ月半のことだったそうです。
さらに借金取りが家に来るようになると、父親は、家に帰らなくなったそうです。
こうして杉本宏之会長の生活は荒れていくことに。
家にも帰らなくなり、地元の不良チームに入ってかなりやんちゃをする日々になっていきます。
またこの時、定職を持たず勝手気ままな生活を送っていた父親と激しい口論に。
そこから取っ組み合いのケンカが始まり、杉本宏之会長は父親に刺されてしまいます。
台所から包丁を持ち出してきた父は、「お前を刺して俺も死ぬ!」。「脅しか!刺せるもんなら刺してみろ!」と父に向かって叫んだ瞬間……。私の左手から真っ赤な血が畳の上に滴り落ちているのが見えました。血だらけになった私を見て、父も我に返ったようです。父は、涙目で震えながらただ呆然と立ち尽くしていました。
https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
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杉本宏之会長は不良チームを抜け、夢を追うように
地元の不良チームでやんちゃしていた杉本宏之会長。
しかしある夜、後輩が敵対する暴走族に襲われ、亡くなりました。
そこで「俺は、いったい何をやっているのだろう?」とすっと醒めたそうです。
そして17歳の冬、不良チームを抜け、大学に行くために遅まきながら猛烈に勉強を開始。
その甲斐あって、希望していた大学に補欠合格されます。
しかし、学費が高額すぎて払えず進学は断念。
父親と同じ不動産業界で生きていくことを決め、奨学金の試験を受け、専門学校に通うように。
入学後はがむしゃらに勉強し、入学した年の10月には宅建に合格。
宅地建物取引業法に基づき定められている国家資格者。合格率は約15%~18%。
これをきっかけに就職情報誌で見た、一番報酬の良い不動産販売会社の面接を受け、1社目で合格。
専門学校をわずか1年で自主退学し、会社に就職されました。
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杉本宏之会長の初めての会社設立
入社後、当時の面接担当者から何度も「杉本は面接のときからお金のことばかり聞いていた」と笑い話にされるくらい、
自力でお金を稼げるようになった杉本宏之会長は夢中で働き、3年目から営業成績はトップに。
このとき年収は2000万円だったそうです。
投資用ワンルームマンション販売の世界では、アポイント数の10~15%が契約となると言われています。私は必死になって電話営業をし、毎月約20件のアポイントを取り続けました。
https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
プライベートではベンツのオープンカーと恵比寿のマンションを購入し、六本木のキャバクラや銀座の高級クラブに通いまくる毎日を送っていたそうです。
しかし、そんな生活を送る中で「なぜ日本のワンルームマンションは画一的でかっこ悪いんだろう」という疑問が生じ、
「自分が売りたいのはこれじゃない。デザイナーズマンションを企画して売ってみたい」と思うようになっていったそうです。
そこで、休日を使ってデザイナーズマンション企画のプレゼン資料を作成し、社長に直談判。
しかし、答えはNOだったこともあり、
2001年12月、デザイナーズマンションを企画販売する会社「株式会社エスグラントコーポレーション」を設立されます。
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赤字地獄に追い込まれる杉本宏之会長
当然、いきなりデザイナーズマンションをつくって売れるほどの資金もなく、
最初はマンションディベロッパーの物件を仕入れて売るという代理販売からのスタート。
しかし仕入れに苦労したこともあり、半年後には会社の口座残高は10万円台に。
その翌日、スタッフ全員に会社が倒産寸前であることを初めて伝えられました。
もちろん何人かは辞めるだろうと覚悟していた中、逆に全員が「ここまできたらやるしかないですよ!」と言ってくれたそうです。
こうして一体感が生まれた会社はぐんぐん業績を伸ばし続け、1期目の決算は売上高7億円、経常利益23万円。
それからも仕入れは順調で、2期目の決算は売上高22億3000万円、経常利益5000万円となっていきました。
また、このとき杉本宏之会長自身が何度もマスコミに取り上げられるようになっていました。
しかし、世間から持ち上げられ、いい気になっていた杉本会長でしたが、
社内の反対を押し切った新規事業への進出、横浜マリノスへのスポンサード、総額7000万円を投じたテレビコマーシャルの投資などが失敗に終わり、
1億5000万円の赤字を作ってしまいます。
さらに2009年、リーマンショックのあおりをうけ、
400億円の負債を抱えた杉本会長は事実上の倒産。
しかし2010年、株式会社シーラホールディングスを設立し、復活されます。
2019年1月にはグループ企業7社を抱え、売上高200億円以上を達成。
倒産したときは人が一気に離れていく経験をし、裏切られたと感じたそうですが、
それでも意外な社員が見方になってくれたり、手を差し伸べてくれる仲間がいたこともあり、
「彼らのためにも二度と失敗はできない」と杉本会長は言います。